記憶の葬送。〜成人式に行ってきたよ\(^o^)/〜

12日に実家帰ってさっき京都に戻ってきた。昨日の成人式に関しては、1回mixi日記に書いたのを適当に切り貼りしときます。まあ、誰が読むでもないですしね。

あー、なんだ。成人式からの流れで中学校の同窓会とか行っちゃったけど、やっとこさ上手い形で中学校の記憶を黒歴史化させることに成功した気がするね。以後はあの頃のことを思い出すたびに、これまで以上に苦虫が口腔内で大量発生することになるんだと思います。まあ、なんだね。成人式のことを書くというのは人生のlogとして必要なことだと思うけど、なんのためにwebに揚げて恥を晒すの、と訊かれるとよくわからない。じゃあチラ裏の文章というのは意味を持つのか? 他との関係性こそが物に意味を与えるのではないか? というイメージは常にある。果たして他人に影響を与えない文章というのは文章たりえるかね。将来的に振り返って、未来の自分に影響を与えるというのはあるだろうけれど。


同窓会でも、会って最初に誰も彼もが学歴しか聞いてこない、やっぱり結果的にお前らは俺のパーソナリティになんざ興味はないんだろうな、と軽く卑屈になってはみたけど、よく考えると俺がいちばん他人に興味がなかった。こっちからなんか話を振った記憶が無い。5割くらい、話しかけてくれてる相手が誰だかわかんないまま乗りきった。昨日の俺はパラッパラッパー海賊版みたいなもんですよ。Aボタンを押すと「京都の大学で物理やってます」Bボタンが「はあ、おかげさまで」Xボタンが「大したことはないんですよ。趣味の延長みたいなもんですから」Yボタンが「まあ、大学に残って研究が出来れば一番いいんですけどねー」。他人の質問に対してリズムよくボタンを押して同窓会を乗り切ろう。そんな安いDSの音ゲーみたいな一日でした。やってて良かったリズム天国


パーソナリティ、っていう個人がどこにあるのか、という問題がある。普遍的に世界に向かって主張できるような自分というのは存在しないと思うんだよな。これは俺のblogで書くようなプロフィール(左フレームからみれるやつ)が短いことにも帰結するけど。じゃあどこに自分というのが存在するのか、っていうと他人との関わりあいで浮き彫りにされていくものだと思う。和辻の間柄的存在ってのがこのことを言うんだったかどうだったか忘れたけど、結局関わる相手ごとに別々の自分が出来るのが当たり前なのではないか。ということを突き詰めるとこの文章は、1段落目と2段落目が同じことを言っている、という不思議にまとまりのあるエントリなんですねー。 更に言えばmixiに書くかはてなに書くかという問題も同じ問題の一部でもある。炎上云々の現実的な話とは別にね。

あとはまあ。最近の症状として、久しぶりに他人と何度も話すと、その夜とかに幻聴気味のものが脳から聞こえてくる。幻聴だって自覚があるうちにどうにかしないとなあ。