梅田望夫,茂木健一郎 『フューチャリスト宣言』

新書はほぼ初めて読むに近い(こないだ朝永振一郎さんのを読んだくらい)ので、他の本と比較してどうこう、著者の考えが云々、とかはできないので、単なる感想を。

20歳になった次の日に読んだ本としてかなり爽快感があって、もうドーパミンがどっぱどっぱ。駄洒落ではなく。なんだか思わず昨日の日記で、現時点での夢なんか語っちゃってるの俺。そんな大二病なんざ祝杯の酔いが引いたら消せばいいのに、ランドマール的に残しといてもいいんじゃないかななんて思わせちゃうくらいの希望感。一晩経ったらあわわわわですけどね。アクセス解析でそのページ踏んだ痕跡が見つかると、頭抱えちゃうくらい。

んで読んでから1日経って感想を書き起こそうかな、と思って本の内容を色々思い出そうとすると、結構色々な問題があるような気がしてくるね。っていうのも、この本でポジティブに書かれてる世界ってのが、著者同士の感じている現在と、今の日本の「談合社会」がぶち壊れた先の未来、ってのにフォーカスがあたっていると思うんだけど、さてじゃあ現役若者世代の自分なんかだと、実際誰がどうやってぶち壊すんだろか、というのを考える必要があるような気がするんだよね。誰かが物理的に通用する腕力を持って破壊するのか、自然とそういう風潮になっていくのか、とか。梅田さんは文中で、

だから、僕が期待しているのは、そういうことを自然に理解する感覚をごく普通にもっている若い世代ですよ。二〇一五年になると、一九七五年生まれの人が四〇歳になる。四〇歳になると、企業組織でもどこでもかなり実権をもつ。二〇一五年ってすぐ来ますよ。日本はその頃に変わる。二〇二〇年になれば、四五歳以下が全部その世代になりますからね。

なんて言ってるけれど、ほんとかしらんて思う。教育から何から根本的に一度破壊できるような、英雄的存在が現れないと厳しいような気がするんだよなあ。ヤンキーになってから教師になると、教育の国策に口を出す権利が自動的に与えられるらしいけど、ネット民の人の中から誰かなってみませんか、ヤンキー。 とにかく。根本的に常識を変えられないと、例えばYoutubeの動画が著作権関係で消されていましたってのを見た時に、くそっテレビ局なんざ既得権の塊だって腹をたてるよりも、まあ法律だししゃあねえなあって納得する人の方がよっぽどまともな人なんだし、そんな感じで学校の教育も社員教育も、上からスポイルされていくんじゃねえかなあと思う。誰なら、何なら変えられるだろうか、というのは多分課題、もしかしたら変えられる存在になってから変えられることに気付くような気もする。

他に思うこと。んー。大学というシステムが終わってる、って話があったけど、個人的に今いる学部ってのが環境的に面白かったりするからなあ。ある教科に興味のある頭のいい奴を上澄みで掬ってきて同じ教室に突っ込む、というのは意外といい環境を作るもんだと思った。もっとももっと最適化は出来るだろうけど。あと話聞く限りではプリンストンの高等研究所の雰囲気も結局はそういうことなんじゃねえのと思う。文中で言う「偶有性」ってやつかな。まあそれは焦点がずれた話になるからいいとして。
梅田さんの言う「ネット上の大学」ってのは、例えば俺が今学んでいる物理分野でいうとどんな感じになるんだろーか。現在だと、専門用語ならwikipediaに突っ込んで英語で何ていうのかを調べてからgoogleに入れれば何だかんだでどこぞの大学の講義録が引っかかるし、困ったら2chの物理板質問スレに投げりゃいいような気がするけど。市販されてる教科書レベルのものに音声やら動画やら埋め込んで公表する、って言う感じかなあ。それも対応できるレベルなんか一定だし。物性の授業で、実験の様子のところだけDVD見せられたの思い出した。あれはちょっと感心したけど、そんなベクトルだろうか。

色々考えたわりに中身のある感想にならなかったな。雑感という名の自分語りだこれじゃ。まあいいや。

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)