『舟を編む』

 非コミュだけど言語感覚を買われて辞書の編纂に携わることになった主人公の15年間を描くものである。まあその非コミュ云々で困るのは最初の一瞬だけで、それも初期段階で大家さんという理解者はいるし、好きな本を買うだけの金もある、会社の方もちゃんとあっさり周りの人に受け入れてもらえる、なんなら宮崎あおい演ずる板前の献身的な彼女もできる、そんで15年も自分の得意な仕事に専念できる、その間に非コミュっぷりも大概治るとなるとそれは救われ過ぎじゃねえの、こうも易易と救われるのは、救われたがっている人のための映画だからではない! かつてそういう人たちを排斥した者が(あいつもどこかで今頃、自分以外の誰かに救われてたらいいなあ)で描くエクスキューズであるからだ! 糾弾! 総括! と思うものの、よく考えてみると俺のいる素粒子論業界も、よっぽどの非コミュでも仕事すれば受け入れられて楽しくやってける度量のあるとこなので、まあ身分が2,3年単位でしか保障されないことを除けば、そういう意味では意外とそんな話もあるのかもしれない、つまり俺が覚えるこの感情は自分に宮崎あおいがいないことに対する嫉妬である。実に醜い。
 あとはまあ、俺もなんだか、辞書で知った言葉を使おうとするとなんか無理の出る年になっていて、そういうのはどうしたもんかなあと思っている。この映画でも、言語感覚というのを個人の特質として扱う部分と、もっと別の実質的に積み重ねる部分があるんだと思うんだけど。辞書そのものよりシソーラスとか読んでると、その辺のバランスを自分で選べて楽しい。