さて、風呂上がりに一発エウレーカの歌でも謳っておこうかな。

月曜のお勉強日記の続き。ここ数日ずうっと考えて、創立記念日で大学が休みの今日も昼までは寝てたけど起きてからは些事をこなしながらずうっと考えてたんだけど、風呂に入ってたらようなくなんか思いついた気がする。この6月の段階で、「〜というパラメータを変えながら、粉体中の摩擦力の変化を調べて関係を作ろう、という目的で実験をやります」なんて言い方でプレゼンをやるから「物理の本質がわかってない」と教授に切り捨てられるのであって、もっとプリミティブに、「何が起きると(×たら)摩擦力が非線形に(急激に)大きくなるのかな」という動機がもっと前提にあって、それでたくさん予備実験をこなしながらなんとなく実験の中で「これが起きるとなんかすっげえ大きくなるべ」っていうことにようやく気がつく、って言う手順を踏むべきなんだろうな。たぶん、その段階を踏まずに「これとこれとこれがパラメータだから弄りながら数字とってくべ」ってやると、陳腐な言葉だけど視野が狭くなる。自分の手で実験をやって、っていう中にだけ、教授の言っていた「実験途中の履歴」というものに気がつけるチャンスがあるんじゃないか。

というところまで文章にしてたら急に大切なことを思い出したんだけど。あのね、教授が言ってたのは「君は物理の本質がわかってない」ではなくて「物理の本質がどこにあるかをもう少し考えた方がいいよ」というアドバイスであって、「期限は9月末だから」は「せいぜい努力しろ。長いことやってりゃ馬鹿でもなんとかなんだろ」という意味なのではなく、「社会人のプレゼンみたいに期限とか具体的短期目標とか気にしなくていいんだよ。ここは京大理学部物理科なんだから。「物理」をちゃんとおやんなさい」という優しい言葉だったのではないか。それを、相変わらずのスーパーポジティブ思考でお馴染みの俺様の脳内翻訳コンニャクが勝手に弾き出した切り捨ての言葉に、俺はうんうん悩んでいた、のか、うわあ。ってことは教授の言うとおりにそのまんま解釈して素直にやってれば良かったんじゃん。なんなんだよ俺は。

以下追記。
という精神論なのかと思ってたら、どうやら全微分量じゃないから積分が経路=履歴に依存するのは当たり前だろアホか、という話だったらしい。もう死にたい。