テーマ:文体を変えたら、普段自分が思ってもいないようなことが書けたりしないかな。

最近自分がまた色々書きたがってるな、という感じがある。個人的な実感として、周期的にインプットの時期とアウトプットの時期があるのがわかる。本を読むことが物凄く面白い時と、何をしてても文章の形で頭の中を言葉が埋めていく時の2種類。どちらも並行して進めながら生きたいという意識に反して、大抵どちらかしか起きない。両立しそうなものですけどどうですかね、とお伺いをたてても突っぱねられる。ただ、この2つは相関関係にはあっても因果関係にはない。たまたまつまらない本に続けて当たってなんだかな、と思ってた時にアウトプットさんが、じゃあそろそろ俺いいっすかねと顔を出しているような、あくまでそれぞれは独立した意識だと思う。つまり、自分の手狭なキャパシティがトレードオフを起こしているだけなのだろう。もちろんそう言い切れるほどの材料もないし、言い切ろうと言い切らまいと結局自分の意識に従うしかない。環境起因説を採用して、それを多分この時期にやることがモアベターなんだよと諦めるくらいか。

ただ、このインプットとアウトプットが独立している分、互いにあんまり影響を及ぼさないのがまた厄介だったりする。具体的に言えば、読書が文章に役立たない。知識が知識として断片化されたままとでもいうのか。知識以外の面でも、各分野での考え方のエッセンスみたいなものを抽出して問題に当たることができていない。各断片化された知識に葉脈を通らせて1つの自分という幹に集約させるモデルは立っているのだが程遠い。そうして得た役に立たない知識なんてのはニヒリズムそのものだし、悪い意味でのオタクだ。エンターテイメントとしての読書、知識欲という言葉。読む本の格調が上がったところで「価値」は屑ほどにもない。どうにかこれらを、自分の内面から染み出してくるような教養へと昇華できないものか、というのが当面の課題である。月並みなマジックワードで言えば「本質」を衝くような、葉脈を通らせるような読書をすることから始める。知識を得るための読書でも、実際に使う知識が入っていそうな本を選ぶこと。「へー、そうなんだ」で終わる知識が必要な段階ではない。更に深く学ぶ時は、何冊も新書を読むのでなく、体系化された教科書を読む。

おお、予定通り思ってもいないような結論に落ち着きそうだな。この感覚は面白い。