さて、今日はmixi用かなと思って溜めてあったブロックメモを誤爆しちゃうぞ。

あー、俺なんか絞っても膿しかでないし、ちゃんと絞ったら絞っただけの樹液が出る人を絞った方がいいんじゃないかなー。ちなみに樹液と受益の駄洒落ですけど。


情熱を熱に例えた誰かへ。

基本的人権を前提としない状況で考えてみた時に「別に死にたくはないけど、自分って死んだ方がいいタイプの人間だよね」っていう結論を得るかどうかってわりと人による? その離散的断絶を三途の川と呼んでみたらどうだろう?
自分の呼吸に罪悪感を覚え出来るだけ隠れていきたいなあと思ってる人間が、人を馬鹿にし生きる権利を手に入れることがあるのかね。


先週だかにエロゲ雑誌を買ったことに端を発する、ここ数日の俺の考える「論理とは何か」シリーズですが、ずぶずぶ2時間くらい風呂に浸かってたらそれなりに思うところも出来ました。結果は「そうか……俺って妖精なのか……道理で背中から羽が生えてるわけだ……」です。いやまあ、結局自分一人で考えたところで自己弁護の結果にしかならないので、どうしても「だからその個人的感覚っての説明したくないんだって」という方向に行きがち。しょうがないなあ。
論理とか学問って単なる言語体系でしょうよ。使う言葉を設定してみんな同じルールで喋ろうね、というお話でしかない。そういう前提があって話を進めるとこうなるよね、という因果関係(結果は因を内包し原因は結果を内包するので絶対的にどっちがどっちをいうことは出来ますか)/演繹を得るために、同じ道を歩いてみましょうね、というのが論理なんだと思うのですね。
それとまた断絶されてるのが感覚で。世界観。美意識。それは各人ルールが違っててもいいので、意味わからんことを言っても全然問題がないのです。わからんのは他者だし。その感覚に至るまでの道筋は俺の中にはそりゃありますよ。その中に"論理っぽい何か"が含まれていても構わない。ただ、それって説明しても絶対に理解なんざできないし、理解しても意味が無いだろうと思うのです。説明してわかるならそういうように共通の道筋を辿ってるのは論理だから。ただ、個人的な感覚は感覚として等価値なので、アウトプットというか結論としての感覚の発露だけ渡して、そこに至るまでの道筋をその人の感覚で勝手にトレース/追わせることにはそれなりに意味があるんだな。芸術。
ま、ただ、この辺の肉薄は多分俺が信じてるよりずっと微妙で、脳を生理学的に見た場合にインプットとアウトプットを普遍的に結びつける何かが見つかれば感覚の道筋は理論になるし、比喩表現って説明に使われるけどアウトプットだけぽんと投げ出して自分で繋げさせてそれを応用させるというのがどっちの領域かというのも微妙な話。