吐血。

文は人なり、なんて申しますがね、まっことその通りでございます。言葉なんてのは全部を自分に向けて書くしかないね。あのねえ、俺にとっちゃ言葉なんてのは堪えきれない吐き気みたいなもんでね。ほんとは全てが自分の中で閉じて完成された人間であるべきだとは常々思ってるんです。要は自分じゃんと。他人に向かってどんだけ立派な姿を見せてたって仕方ないですから。思想も言葉も主張も全ては体得すべき自分のもの。でもね、どうしようもなくこの吐き気が止まらないから仕方なく言葉を吐いてるんです。げろげろげろ。しょうがないですよ、自分の中に溜め切れておけないんだもの。でもですよ、いくら鮮やかな血ゲロを吐いてみたところでそれゲロですから。「見てよこのゲロ! ちょうきれい! あげるあげる!」なんて他人に押しつけるわけにいかないじゃないですか。だってゲロだし。「はあ、毎度毎度俺ってばこんな色のゲロを吐く体質してるんで、俺んち来りゃ適当に新作の血ゲロが見れますけどね。まあ俺は自分の吐き気と闘ってますんで、そういうの好きな人がいればどうぞ」っていう形でブログを書くしかないんです。しかもそれでいて自分では結構愛着湧いてんだよね、自分のゲロに。ほんとは吐かずに自分の中で錬成して同化すべき自分のものだったと思ってるから。 
だからね、他人になんか主張をぶつけたり、というかそもそも読者を期待/想定して文章を書けたり、クネクネができたりする人ってのは凄いなと思う。そういうタイプの言葉を書ける人もいるんだ、という感じ。たぶんそういう人たちの言葉はゲロじゃないんだと思う。地球環境正常化に役立つ不思議な何か、お中元に贈っても喜ばれる何かを体内で生産しては聖夜に煙突から忍び込んで配り歩いているんだね。歩くwin-winと言われて称えられればよろしいとおもう。そういう事について1年くらい前はちょっと悩んだり羨んだりしたけど、最近は体質みたいなもんかな、と諦めるようになった。俺みたいに、基本的に自分のためにしか文章を書けない人ってのは存在する。外向/内向という言葉で簡単に説明されるべきだろうけど、でもそれできちんと理解してもらえると思ってないから。これは俺が俺の文脈と体験で(正確に言うと、こないだ夏越祓に行った北白川天神宮の階段を登ってる最中にふと自分の中に入ってきた)理解した言葉だからね、っていう考え方をするんだよ。
じゃあこういう人たちは間柄的存在っていう文脈からどう理解されうるかというと、まあ孤立するしかないですよ。よく知らんけど。そら各々の「人間」なんてのは口移しした唾液の引く白い糸の中によって構成されるべきでしょうよ、キスキスキス。あるいはその唾液を自分の中に溜め込みすぎるとゲロになるのかもしれない。ま、よくわかんないや。


ちょっとベクトルが外向きになりかけてるついでだから、ちょっとだけ読んでる人(crowd的なものしか想定できないけど)に向けてぶっちゃけておくけど。俺のお勉強日記、上回生とか既卒やら俺より凄い同級生などの人たちが読むべきじゃないと思いますよ。たぶん、その時間はとっても無駄だから。下級生がペースメーカー程度にみたり、たまたま単語単位でgoogleに引っかかった時に本のどこ読めばいいのかがわかる、みたいな用途しかちょっと俺には想像できない。そういう人がいるなら、あんたがた俺のブログ見てどうすんの? てめえで勝手に本読んだら? と思う。んま、俺のあまりの美少女っぷりに、隙を見ては媚びを売って仲良くしたいと思ってんなら別ですけどね。いや、嫌な言い方になってるなら訂正するけど、ほんとによくわかんないなとは思ってるよ。